門司港駅保存会−−福岡県北九州市−
 

福岡県北九州市の門司港地区はかつては九州の玄関口として、また、大陸航路の基地として栄えたところだが、戦後は地盤沈下がひどくなった。特に昭和三十八年に門司市を含む五市が合併、北九州市が誕生すると、中心部は旧小倉市となって、門司は人口も減少して「場末」になった。
そういうなかで市は明治、大正時代にできたものの老朽化が進み、解体の危機が迫った建築物を修理、再生させる「門司港レトロ事業」にとり組み、それによって当時のハイカラな街並みが新しいロマンの空間としてよみがえった。門司港地区の再生の軌跡を迫ってみたい。

  フランス料理のミカド食堂
 門司と山口県下関市との間の関門海峡は最もせまい「早鞆の瀬戸」が六百八十メートル、潮流の速さは最高時速十八キロで、かつては源平壇の浦合戦の舞台となり、海峡のなかに浮かぶ巌流島では慶長十七年(一六一二年)、宮本武蔵と佐々木小次郎が対決した。門司では明治二十二年に門司港が開港、三十四年に山陽本線が全通すると関門航路が九州と本州を結び、大正三年には門司港駅が誕生した。
 門司港駅はネオ・ルネサンス様式の木造二階建てで左右対称。駅舎の二階にあったミカド食堂は神戸のミカドホテルが経営する本格的なフランス料理の高級レストランで、ふだん着でははいりにくい気品を持っていたという。
 戦前の海外旅行の帰国者や戦後の引き揚げ者が上陸してのどをうるおし、安堵の思いをしたという「帰り水」、大理石とタイル張りで蛇口が並び、トイレとは別になった洗面所などは鹿児島本線の起点を示す構内の「O哩標識」とともにいまも残り、往時をしのばせる。ただ、ここははじめは「門司駅」で、昭和十七年に門司鉄道トンネルが開通をしたときに「門司港駅」に改称した。
 
 工業都市には無縁の観光
 門司港はまた中国の五大港といわれる大連、天津、青島、上海、広東との間に定期航路を開き、大正初期には出入りをする船舶数は横浜、神戸港をしのいで全国一の規模になった。
門司港駅の局辺には九州鉄道本社、門司税関などのレンガ造りの建物や倉庫群が立ち並び、新しい商品があふれ、人びとの往来でにぎわった。
 しかし、大陸貿易は戦後はさびれ、北九州市発足後は経済の中心は市役所をおいた小倉になり、国鉄の関門連絡船が廃止になった昭和三十九年には日銀支店も小倉に移った。さらに、四十八年の関門橋に続いて五十年に新関門トンネルができて山陽新幹線が開通すると、北九州市の玄関口は小倉駅となり、門司港駅を利用する人は少なくなった。それに伴い人口は減少し、明治、大正時代にできた由緒ある建築物にも解体の危機が迫った。
 しかし、それに対して北九州市も地元の門司区もはじめはなにも手を打とうとはしなかった。建築物の修理をし、まわりを再開発して観光客を呼び込むことも考えなかった。なにしろ北九州市は新日鉄の製鉄所を中心とする工業都市として発展してきたところ。観光に活路を求めるなどという発想はだれにもなかったし、昭和六十二年に市長が交代するまで北九州市には観光課もなかった。工業都市では観光ということばはあっても、それはどこかへ行くことで、迎え入れるという意識はなかった。
 
 駅舎が国の重文に

 ところが、その一方で放ってはおけないことも起きた。昭和五十八年になって当時の国鉄が市に対して門司港駅が老朽化をし、特に屋根のいたみがひどく、雨もりもするので修理をしたいが、国鉄も赤字なので地元でも協力をしてほしいと申し入れたことである。
 地元では経済界を中心に「門司港駅保存会」を発足させて五百万円を目標に翌五十九年二月から募金にはいった。その結果、保存会は目標の三倍を超える千五百三十万円を集め、国鉄はそれを含めて三千七百万円の予算を組んで屋根のふき替えと外壁の塗装をし、市も地元のそういう熱意にこたえて六十年に夜間照明工事をし、五月から門司港駅のライトアップが始まった。
 門司港駅はその後、六十三年に鉄道の駅舎としては全国ではじめて国の重要文化財となった。JR九州は翌平成元年が九州の鉄道開業百年だったことから改めて駅舎内部の改修工事に着手、コンコースは出札窓口に「切符売場」、待合室には「待合所」の看板を掲げて復古調にし、改札口もステンレス製から木製にかえて大正ロマンを強調した。 この門司港駅の改修から門司港レトロ事業はスタートしたと言っていい。保存会も募金の趣意書に「今回の運動が関門地区に点在する明治、大正の由緒ある建物の保存にも移行拡大する一歩にでもなれば」と書いていたのがその表れだが、しかし、道のりは決して平担なものではなかった。        (亀地 宏) 税2003年1月号 ヒューマン ルネッサンス より

門司三井倶楽部について


01年、  九州ブロックとはぐれ会で訪れた門司三井倶楽部は、大正10年に建った三井物産門司支店の迎賓館でした。(木造二階建ての洋館)

大正11年にはアインシュタイン博士夫妻も泊まったが、戦後の財閥解体の時に国鉄が買い取り、「門鉄開館」として職員の厚生施設となった。しかし、この由緒ある建築物にも取り壊しの危機が迫った。

 門司港駅の補修が終わり、ライトアップが始まった昭和60年の暮れになって門司鉄道管理局は、北九州市に門鉄開館の処分を伝えた。当時門鉄開館は、港から、奥に入った風師山の麓にあった。

 老朽化が進み国鉄民営化により、清算事業団所有となり、建物の帳簿価格はゼロなので、土地も売却することになった。当然、市も、市民も出来れば保存したい気持ちはあったが、多額の資金がかかり、市の財政では難しい状況であった。

 そういう中で昭和62年、自治省が打ち出した「ふるさとづくり特別対策事業」が門司港レトロ事業への道を開いた。市は、この事業を活用して門鉄開館と、やはりこのころ取り壊しが浮上していた大阪商船三井船舶門司支店ビルを修復、保存するとともに、門司港駅周辺を観光地として整備することを決め、「門司港レトロめぐり、海峡めぐり推進事業」のプランをつくった。

 それによって門鉄開館は保存することが決まったが、現場は、レトロの地区外で、国の財政援助がない。そのために門司港駅前に移築し、観光案内館とすることになった。

 しかし、こんどは、都市計画法による防火地域指定のため、大規模な木造家屋は建築できない。ただ、基準法の例外規定で、国の重要文化財ならそのまま移築できる。そこで、平成元年ごろから、国重要文化財指定に向けて運動を行い、翌2年「旧門司三井倶楽部」として国の重要文化財となった。

 平成33月から、32億円をかけ、6年末に完成。一階のイベントホールには、三井物産が、グランドピアノを寄贈。同じ一階の大食堂は、「三井倶楽部」と名づけたレストラン。二階は、「アインシュタイン・メモリアルルーム」と門司生まれの作家林芙美子の資料室で、有料としているにもかかわらず、年間10万人が観賞しているという。

(詳しくは、「税」2003年2月号のまちづくり ヒューマンルネッサンス 亀地 宏 著を参照のこと)


ブルーウイングもじ−福岡県北九州市−

 門司三井倶楽部がオープンした平成六年には大阪商船三井船舶門司支店ビルの復元と門司税関の保存が終わった。
また、それらに先がけて船だまりを活用した親水護岸とはね橋の「ブルーウイングもじ」も誕生したが、その一方でレトロ地区内に民間のマンション建設計画が浮上をし、地元には一時、騒然とした雰囲気がただよった。

  門司港の美貌よみがえる

 大阪商船ビルも門司税関も門司三井倶楽部と同様にいったんは解体の危機が見舞った。大正六年建築の大阪商船ビルは竣工当時、地元紙が 「門司港の美貌」とたたえたくらいで、燈台のかわりにしたという高さ二十七メートルの八角塔をシソボルにしていたが、会社はそれを処分して、隣に新ビルを建てる意向を示していたし、明治四十五年にできた門司税関も昭和八年に役目を終えて倉庫となり、一部は壊れかけていたので解体は避けられなかった。
しかし、どちらも門司港レトロ事業のなかで生き延びることになった。
 大阪商船ビルの修復保存の設計にあたった建築事務所は完全な形で復元しようと古い写真などをもとにして建築当時はあったものの、その後の改造でなくなった十個の欧風のドーマー(屋根窓)、パラペット(屋根の裾の帯状の飾り)、ペディメント(外壁のアーチ型の装飾)の復元も含めた図面を描いたところ、工事費が九億円にもなったことから、予算はほぼ半分の四億八千万円しかないという市と折り合いがつかなかった。
 事務所では使用する資材や構造などを工夫して、予算に見合う図面につくり直したが、できた当時の華やかさを想像してもらうためにも外観だけは元通りにしたいと繰り返し主張して、屋根窓とパラペット、ペディメントは復活させて、三千六百万円の予算を増額してもらい、「門司港の美貌」は六年八月によみがえった。

  職人の仕事ぶり見せる

 門司税関も空襲を受けたり、その後の倉庫への改造などで屋根もなくなり、二階も壊れ、できたときとはすっかり形が変わっており、しかも、創建時の設計図も残ってはいなかったので、市は数種類の写真をもとに当初の外観の再現につとめ、それによって門司税関は四年末に着工し、十二億円をかけて六年十二月に竣工した。
 ただ、門司税関は元通りに復元したのは外観だけで、内部は漆喰がはげ落ちたレンガの壁面をそのまま残し、明治のころの職人の入念な仕事ぶりを見てもらい、二階の床もレンガの壁に負担をかけないょうに、独立した木造の二階建てを内部につくった。
 門司税関の保存と同時に埋めたてるはずの税関横の船だまりも残し、入り口にはレトロ地区のシンボルとしてはね橋をつくることになった。
市は埋め立てて売却した代金をレトロ事業にあてようとしたようだが、「このような貴重な水面をなくすのは」という批判が起きて方針が変わった。
 その結果、平成四年には三千三百平方メートルの親水護岸ができ上がり、五年秋にははね橋の「ブルーウイングもじ」が誕生した。

 レトロ地区に民間マンション
 


 親水護岸は石畳の広場で満潮になると海水にひたり、潮が引くとイベントスペースに変わる。
ブルーウイングもじは長さ百八メートルで、中央の二十四メートルの親橋と十四メートルの子橋が両方はね上がる。
 橋床は船のデッキをイメージし、歩く部分は木でできており、一日四回、三十分ずつ開くが、歩行者専用の可動機はここにしかないという。
 そうするうちに平成六年にはいって船だまりの北側の三菱倉庫の跡地に十五階建ての民間のマンションができることになり、地元にはレトロ事業の趣旨に合わないうえ、景観も損ねると批判の声が相次いだ。
市もそれを懸念して開発会社が出した建築確認申請を保留したため、会社はついに裁判に持ち込んで結着をつけることになった。
 市民もこの間、ただ反対を唱えるだけではなく、シンポジウムを開いて解決の方向を話し合った。シンポジウムには市民からの求めに応じて開発会社も代表者を出席させて意見を述べて話題を呼んだ。
 マンションは結局、十五階建てだと横幅が邪魔をしてレトロ地区から門司城趾と和布刈(めかり)公園の広がる古城山の稜線が見えにくくなるので、福岡地裁で話し合い、超高層化をして三十一階建てとして横幅をせばめ、視界を確保することで和解、最上階の三十一階は市が買いとって展望室として市民に公開することが決まり、平成十一年四月、「門司港レトロハイマ−ト」として完成した。外観は利休ねずみ色。
 たとえレトロ地区でもこれから建てるものまでも明治・大正調に統一することはないと考えたからだという。
           (亀地 宏
税・2003年3月号 ヒューマン ルネッサンスより

・          
国際友好記念図書館−福岡県北九州市−


  昭和六十二年に始まった門司港レトロ事業は平成六年末までに門司港駅と門司三井倶楽部、大阪商船ビル、旧門司税関の修復、保存が終わり、
はね橋の「ブルーウィソグもじ」もできた。それと同時にこの年には全く新たなレトロ地区の拠点として 「国際友好記念図書館」が誕生した。
 
 大連市の建物を複製
 国際友好記念図書館はかつての大連航路の縁で北九州市と友好都市になっている中国・大連市の建物を複製してでき上がった。建ったところは門司税関の真向かいで、モデルにしたのは帝政ロシア時代の明治三十五年にできたという旧東清鉄道事務所。
 ここはその後、日本の統治下になってから満鉄が大連倶楽部として利用、大正十五年には日本橋図書館となり、最後は十数世帯が住む大連市の「勝利街三十五号共同住宅」となった。
 北九州市としては最初、昭和五十四年の友好都市提携から十五周年を迎えたのを記念して、大連から解体予定の建物を移築することを考えたが、中国にも歴史的な建造物を保全する動きがあるうえに、技術的にもむずかしいこともわかって複製になった。工事にあたってはレンガと石材は中国から運び、加工と石積みのために二人の石工も招いたが、瓦だけは気候や気象条件の違いなどから日本の石州瓦を使った。
 複製した東清鉄道事務所を図書館にしたのは、一時、日本橋図書館として使っていたことにもよるが、同時に文教施設とすることで周辺にパチソンコ店など風俗営業の店ができるのを防ぎたいというねらいもあった。特に当時は前段のように民間のマソショソン建設をめぐって紛争が続いており、放っておくと同じことが起きないともかぎらないので、レトロ地区の中心に文教施設の図書館を建てることで、そこから一定の範囲内での風俗営業の出店を防ごうとしたわけである。
  館内には中華料理店
 十三億円をかけてでき上がった国際友好記念図書館の一階には大連市から出店した中華料理店「あかしあ」がはいり、二、三階が図書館で、蔵書の大半は中国、韓国、東南アジア関係。大連市からはこれまでに専門書、辞書、教科書など一万三千冊の寄贈を受けた。なお、大連市ではその後、記念図書館のモデルとなった勝利街三十五号の共同住宅をとり壊し、北九州市と同じものを建て、「大連芸術展覧会」として八年八月にオープンした。
 こうして門司港レトロ地区の主要施設ができ上がった。駅を除く建物は土地とともに市が買収、新設して市の所有になり、そのうち門司税関は一階がホールと休憩室、二階がギャラリーと関門海峡をのぞむ展望室、大阪商船ビルは一階が多目的ホール、二階が海、船、港をテーマにした海事資料室になった。
 ビルの修復に伴って周囲の光景、たたずまいも変わった。門司港駅前は白と桜色のみかげ石を敷きつめ、噴水の上がる「レトロ広場」となり、駅と港の間の視界を妨げるビルも買収、撤去したので駅を出るとすぐに関門橋を眺望できるようになった。
 地区内の主要な街路では電線を地中化し、民間の倉庫を解体の途中で買収して、跡地を「門司港レトロ駐車場」にした。一部が崩れかけているように見える倉庫の壁がレトロを表す飾りの意味を持つという。

  海峡のぞむノーフォーク広場
 門司港レトロ事業はレトロ地区だけでなく、関門橋の真下で早鞘の瀬戸をのぞむ和布刈(めかり)地区を対象にした「海峡めぐり推進事業」も含んでスタートしたが、ここの整備もまた進んだ。海岸沿いを含めて延長二千八百メートルの遊歩道を和布刈公園のなかにつくり、米国バージニア州のノーフォーク市と昭和三十四年に結んだ姉妹提携にちなんで名付けた「ノーフォーク広場」には関門海峡を通行する船の種類をシルエットで描いて掲げた。
 絵はコンテナ船、客船、タンカー、タグボート、フェリーなど二十枚。海峡を通る船舶は一日七百隻を超えるので、早鞘の瀬戸に面したここからはいつでも大小たくさんの船を間近に見ることができるという。
 門司港レトロ地区ではさらに民間企業も積極的に協力し、NTTがいったんは決まった門司営業所ビルの解体をとりやめ、改修して保有したほか、銀行、借金の本支店なども外壁を塗り替えるなどの補修を行った。
 また、十年三月には第三セクターで建設した「門司港ホテル」が開業し、七月には門司港レトロ観光物産館「港ハウス」が誕生した。門司港ホテルは故アルド・ロッシ氏の遺作となるデザインで、鮫をモデルに設計をしたといい、港ハウスには観光市場と約二百席のレストランがはいり、レトロ地区でははじめて団体客の受け入れが可能になった。門司港駅の周辺はこのようにして生まれ変わった。
                         (亀地 宏
 税・2003年4月号 ヒューマン ルネッサンスより

門司港レトロ倶楽部−福岡県北九州市−

 門司港レトロ事業が一段落し、平成七年三月二十五日に記念式典を行ったあと、地元では「門司港レトロ倶楽部」を設立するための準備にはいった。
 ハードの施設は行政で整備をしたが、それを活かして観光客を呼び込んだり、まちづくりにつなげることは民間と行政が手をたずさえてとり組もうというねらいから倶楽部をつくることになったわけだが、はじめのうちは規約や運営の仕方について民間と行政の間には溝があり、それがなかなか埋まらなかった。

  民間、行政が交互に司会
 レトロ倶楽部をつくるための話し合いは主として「門司まちづくり21世紀の会」、「門司みなと商店街振興組合」など民間六団体が集まって七年七月に結成した「門司まちづくりネットワーク」と市経済局観光課との間で始まった。
 ネットワークをこしらえたのは、倶楽部ができるまでの間はここが主体となってまちづくりのための活動をしょうという意図があった。
 ネットワークと市の話し合いで、まず、くい違いが生じたのは、ともすれば行政が最初にたたき台をつくって示し、議論をりードしょうとしたことに、民間がとまどいと反発を覚えたからだった。
 民間にしてみると、つくってもらった試案にあれこれ言うより、試案をつくるところからいっしょに考えたいと思っていたし、また、行政にりードをまかせるのではなく、民間と行政は車の両輪、同じ立場で向かい合うのがのぞましいと思っていたので、その点でもギャップがあった。
 会議は月に一回か二回のペースだったが、途中から司会は民間と行政が交代でつとめるようになった。
 司会をする以上、議事についての勉強を事前にきちんとしておかなくてはならないから、これは特に民間の人たちにはまたとない刺激となった。
 しかし、会議はモメたり、平行線をたどったり、ときには机をたたいてケンカをしたこともあった。

 不可欠な地域の活性化
 倶楽部の設置目的がはじめは観光振興だけで、地域の活性化が脱けていたこと、メンバーに地元の門司区役所がなくて、北九州商工会議所や北九州コンベンションビューローがはいっていたことも議論になった。
 市にただすと、倶楽部の予算はレトロ地区につくった施設をイベントなどでPRをし、もり上げるソフト展開のためのもので、そこには市全体の考えを反映させなくてはならないからといったことだったが、納得できないところがあった。
 特に民間のメンバーは倶楽部の活動を一時的なものにとどめずに、長く続けて、地域のために役立てたいと考えていたので、活性化は欠かせなかったし、そのためには門司区役所にも構成団体になってもらわなくてはならなかった。
 一方、商工会議所などは、門司のことだけを考えればいらないかもしれないが、いっしょに活動をしてもらうことで、視野が広がるのではないかと思い、妥協をすることになった。
 門司港レトロ倶楽部は結局、七年十二月に発足した。民間が主張をした通り、設置目的には「地域の活性化」がはいり、門司区役所も「まちづくり推進課」として加わった。
 事務局は観光協会振興二課に置くことも決まった。
 また、倶楽部のなかには観光宣伝、観光資源開発、観光客受け入れの三つの部会ができて、それぞれ活動をしていくことになった。

  レトロタイムスを発行 
観光宣伝部会では「レトロタイムス」を発行することになった。
 第一号は八年四月で、年に二回、二万部ずつ発行し、無料で配る。記事は特集とイベントや新店舗の開店のお知らせなどで、十年春の第五号には門司港ホテルのオープンに門司港と愛媛県松山市との間を二時間半で結ぶ高速船「シーマックス」の就航、十年冬の第六号には旧門司税関と「みなと回廊展」、この年七月に誕生した港ハウスのことが載った。
 みなと回廊展は観光資源開発部会が平成九年から始めたもので、地元で活動、活躍する陶芸、絵画、染色、創作人形などのアーティストをとり上げ、レトロ地区の施設に作品を展示、見て歩いてもらう試み。
一回目は九人、二回目の十年は十組、十一人で旧大阪商船、旧門司三井倶楽部、門司港ホテルに展示した。
 それにしてもレトロ事業を始めてから、かつてはゼロの観光客が百五十万人になり、新しい飲食店もずいぶんふえた。
 門司港駅舎のなかでしゃぶしゃぶをたべさせる「紗舞館」、旧門司三井倶楽部のなかの「三井倶楽部」、旧門司税関でティータイムを楽しむ「レトロカフエ」、記念図書館の「あかしあ」、港ハウスの「海峡ダイニング」などで、十年四月にはやはり古い倉庫を活用した「門司港地ビールエ房」もオープンした。
倶楽部はタイムスとは別に新旧の飲食・土産品店を紹介する「門司港グルメウォッチング」も発行した。
           (亀地 宏
〔税・2003 5月号より〕

ヒューマンルネッサンス
バナちゃん道場−福岡県北九州市−
 門司港レトロ地区の玄関口のJR門司港駅で平成9年から「バナちゃん道場」が開講した。
 実は門司港は「バナナの叩き売り」の発祥の地といわれるところで、いまも叩き売りの口上を「バナナの叩き売り保存会」が受け継いではいるものの、高齢化か進み、メンバーも少なくなってきたことから、門司区役所まちづくり推進課の主催で講習会を開き、口上の述べ方などを伝えてファンをふやし、普及をさせることになった。
  バナナの叩き売り発祥の地 
バナナが日本にはいったのは明治36年で、台湾の基隆(キールン)の商人が神戸に荷揚げをしたといい、41年ごろからは産地に近い門司港に入荷をするようになった。
もちろん、バナナは市場に回るが、輸送の途中で蒸れたり、傷のついた不良品は露店商たちが芍(しゃく)棒をたたき、口上を述べ合いながら売りさばいて換金、それがバナナの叩き売りとして門司名物のようになった。  バナナの叩き売り保存会は昭和38年に発足し、53年には門司港駅の近くにバナナの叩き売り発祥の地の碑も建った。
 前号で紹介した門司港レトロ倶楽部にも「門司港発展期成会として加盟、レトロ地区ができてからは隣接する栄町銀天街で土曜日ごとに正午から30分ほど演じてきたが、人数も四、五人ほどに減り、火の消えるおそれも出てきたので、「バナちゃん道場」を開くことになった。
 「バナちゃん」というネーミングは門司港ではバナナもバナナの叩き売りも「バナちゃん」の愛称で呼ん
でいたからで、道場は最初の年が9年10月から10年3月までの毎月1回、全部で6回。会場は昔はミカド食堂だった駅舎2階の大ホール。
 保存会のメンバーが「師範」として講師になり、受講生を「門下生」として新聞、ラジオ、市の広報誌などを通して66人募集、応募者が定員を趨えた場合には抽選で決めることになった。
  サアサア買うたサア買うた
 応募者は結局、147人にのぼり、門下生は抽選で決定した。年齢は83歳の男性から24歳の男女までと幅広く、名占屋から新幹線で通ってきた人もいた。
 道場のねらいはもちろんできれば後継者の育成につなげることだが、区としてもはじめからそこまで考えていたわけではないという。
 「年に数回の講習会で師範クラスの腕前になれるかどうかはわかりません。後継者になってくれれば、それはありがたいことですが、とりあえずは覚えることで門司に愛着を持ってもらい、イベントや会合で披露できるくらいになれば上出来だと思っています」。
 道場では叩き売りの唄い口上の「バナちゃん節」と、客との掛け合い口上をマスターする。
 バナちゃん節は 
  「春よ三月春雨に 弥生のお空に桜散る 奥州仙台伊達公が、何故にバナちゃんにほれなんだ バナちゃんの因縁聞かそうか 生まれは台湾台中の 阿里山麓の片田舎」
 というように、若い娘にたとえた台湾バナナのバナちゃんが摘みとられ、東支那海を越えて門司港にくるまでが節付きの口上としてできているが
  『黄色のお色気ついた頃 バナナ市場に持ち出され ー房なんぼのタタキ売り サアサア買うた サア買うた」
 のあとで始まる客とのかけ合い口上はそれぞれがオリジナルを自分で考えなくてはならない。
 マスターすれば免許皆伝 
 客に[高い」と声をかけさせ、
 「高いはあんたの地位と教養、低いはおれの背の低さ」
 というように、すかさず次のことぼを入れ、ときにはエッチなせりふ、風刺やユーモアで笑わせたりするが、馴れないうちは「サア買うた」のあとのことばが出ずに、頭のなかが真っ白になることがあるという。
 道場での練習は6班くらいに分けて行い、口上を覚えると、こんどは門司港駅前で販売も体験する。
 その場合、商品のバナナは区の予算で用意をするが、どうしても区が損をすることが多いという。 「5房を1500円で買った場合、一房300円で売れればモトをとることができますが、いまではバナナも安くなり、200円くらいにしかならず、赤字になってしまいます」
 道場の最後には試験をし、合格すると『免許皆伝」として認定証と法被と酌棒、豆絞りを贈る。試験は口上をバスした人に門司港駅前で実際に売ってもらって判定する。
 1回目の9年は66人のうち男性2人、女性1人の3人が免許皆伝書をもらった。
 2回目の10年は毎月第1、第3火曜日で9回とし、60人を募集した。
 141人が応募をし、男性34人、女性26人が門下生となった。
 東京都のほか石川、広島、佐賀県からも参加をし、1期生のうち8人がアシスタントの「師範代」として講師陣に加わった。道場は14年で6回目を終了した。
亀地 宏)税2003年6月号より
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